枯山水ガイド

枯山水の歴史

2020年2月15日

「枯山水」という言葉が歴史ではじめて登場するのは平安時代です。

大名庭園のような豪華さや派手さはないものの、日本ならではの美意識である「侘び寂び」を感じることができる枯山水。

向き合うことで心に癒やしをもたらしてくれる枯山水は、観光地としてとても人気なスポットです。

日本独特の庭園様式として世界に誇れる枯山水は、一体どのように発展してきたかのでしょうか。

枯山水の歴史をたどってみましょう。

かえで
枯山水を知るには歴史背景の知識が欠かせません。

枯山水の歴史

枯山水の歴史を時代ごとに振り返り

「枯山水」という言葉の歴史をたどると、さかのぼること平安時代後期に生まれました。

平安時代後期に書かれた日本最古の作庭書「作庭記」に記述されたのがルーツです。

枯山水の由来は平安時代に書かれた作庭記

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平安時代〜現在までの歴史を時代ごとにさかのぼってみます

【枯山水の歴史】平安時代

平安時代後期に書かれた日本最古の作庭書「作庭記」に、「枯山水」に関して次のような記述があります。

池もなく遣水もなき所に、石をたつる事あり。これを枯山水となづく。その枯山水の様は、片山のきし、或野筋などをつくりいでて、それにつきて石をたつるなり。

「作庭記」に書かれている「枯山水」は、庭園のなかの1区画に置く石、景石の置き方の様式を指していると考えられています。これを「平安時代式枯山水」「前期式枯山水」と呼びます。

平安時代に禅はまだ広まっていないので、現在の枯山水のイメージとは異なるものだっとと考えられます。

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言葉として枯山水が誕生したのは平安時代ですが、その姿は現在のものとは別物だったようです

【枯山水の歴史】鎌倉時代

鎌倉時代に入ると、中国から禅宗が伝えられて本格的に広まりました。

そこで活躍したのが臨済宗の禅僧である夢窓疎石(むそうそせき)です。

一般的には、夢窓国師と呼ばれることが多いです。

国師とは、朝廷から高僧に授けられる称号のことで、尊敬の念を込めて夢窓国師と呼ばれることが多いのです。

夢窓疎石は、もともと浄土式の寺院であった西芳寺に呼ばれ、禅宗寺院として復興していきました。

その中で、枯山水を禅の修行をする場としてつくりました。

西芳寺の枯山水

鎌倉時代の書物「源平盛衰記(げんぺいせいすいき)」に、「乾山水」「乾泉水」の記述があります。

「乾山水」「乾泉水」は、盆栽のようなものを指す言葉と考えられ、現在の「枯山水」が指すものとは別のものを指す言葉と考えられています。

源平盛衰記とは、長きにわたる源氏と平氏の争乱をこと鮮明に記した有名な平家物語のことです。

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源平盛衰記は落語にもなっているので、興味ある方は下記動画を見てみてください。

【枯山水の歴史】室町時代

応仁の乱(1467年)で京都が荒廃し、より狭い土地に低予算で造ることができる枯山水(かれさんすい)が脚光を浴びました。

日本庭園は水を得られる場所に築くものであったが、枯山水様式の登場後は必ずしも水を使わなくとも造園が可能になりました。

日本人の侘び寂びの感覚に寄り添い、禅寺のみならず、武家や町人へも広がり大きく発展していきます。

【枯山水の歴史】江戸時代

室町時代に大きく発展をした枯山水庭園は、江戸時代に入ると全体としては衰退の時期を迎えます。

戦国の世が明けた江戸時代は、経済が安定し富が有力な大名や商人の元に集まるようになりました。

その結果、お金持ちの大名が、お金をふんだんに使って大規模で娯楽的な庭園を作り始めました。

この庭園が「大名庭園」です。

その影響でこじんまりとしていて、高い思想性を表現している枯山水は、存在が薄くなっていきます。

そんな過渡期に枯山水をいくつか残したのが、小堀遠州(こぼりえんしゅう)です。

小堀遠州の枯山水

【枯山水の歴史】昭和時代〜現在

江戸時代に衰退した枯山水が復活するのは昭和になってからです。

昭和時代に重森三玲という近代作庭家が色あせることのない「永遠のモダン」を目指して枯山水庭園を数多く作庭しました。

重森三玲のモダン枯山水

枯山水の歴史まとめ

枯山水の歴史をたどってみると、どんな

・枯山水の歴史ルーツは平安時代に書かれた「作庭記」
・鎌倉時代に禅宗の思想が注入された
・戦で荒廃した室町時代に発展し、江戸時代に衰退
・昭和からモダン枯山水として復活

はじめての枯山水庭園ガイド

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